2018年8月21日にキルギス共和国で、イスラムの犠牲祭におけるムスリムの集団礼拝を見学した。
詳しい人数は不明だが、ぱっと見た感じで数千人以上は広場に集まっていただろう。
ここでムスリムが集団礼拝をすることは知っていたので、ぼくは好奇心と写真を撮るために駆け付けた。
足の踏み場のないほどに、数千のムスリムがずらーっと列を作り絨毯を敷いて、唯一の神アッラーに祈るのだ。
この凄まじく厳かな雰囲気と集団礼拝に圧倒された!
足場のないほどのムスリムの中には、視界に入る限り、ぼくを含め3人のカメラマンがいた。
※ここではカメラマンと書いたが、ぼくは観光客だ。
数千人が礼拝する中、その3人だけが礼拝をせず、カメラを構える。
これはぼくにとっては、容易なことではなかった。
ぼくたち3人は、ムスリム数千人の中にいる「異分子」である。
非常に目立つ存在ということは想像がつくだろうか。
どんなときでも堂々とカメラを構えることは容易ではない。
例えば、昨日の集団礼拝。数千人規模のムスリムが祈る厳粛な世界に3人の異分子がいた。
カメラマンの線引きは難しいと思っていたが、卓越する覚悟とプライドが必要だと考えさせられた。 pic.twitter.com/N7Jibnwo1A— あつし (@axyzworld) 2018年8月22日
このムスリムの集団礼拝に圧倒されながらも、同時に「カメラマンとは何者か」ということを考えさせられた。
今記事では、自分の中では線引きが難しかったカメラマンに関して考えるいいきっかけになったので、ここに自分の意見を整理するために書いていきたいと思う。
カメラマンとは何者か
ぼくの自分の頭で考えた結論はこうだ。
卓越する覚悟とプライドとを持つ者がカメラマンだ。
まず第一に、ぼくの立場をはっきりとさせておこう。
ぼくは世界を旅しているただの好奇心旺盛な写真好きな旅行者だ。
ブログやSNSで情報発信をしたり、写真展もしたことはあるけれど、自分のことをカメラマンだとかジャーナリストだと思ったことはない。
だから、ぼくはただの旅行者だ。
こういった答えのない賛否両論あるような問題は、ぼくは自分の頭で考えて結論を出すことを大切にしている。
カメラマンは自称である。
カメラマンになるためには資格があるわけではない。
他人の言うことはどうでもいい。
それは、自分の頭で考えることだ。
他称カメラマンよりは、自称カメラマンのほうがいい。
他称だと誰かに責任転嫁することができるが、自称だと責任はすべて自分に帰属する。
だから、カメラマンは「自分はカメラマンだ」と思ったときからカメラマンでもいい。
ただ、ぼくが思うカメラマンは卓越する覚悟とプライドを持つ人である。
自称カメラマンでも僕は否定はしない。自由だ。
カメラマンかどうかは、自分で決めるので、他人が旅行者とカメラマンと区別することできないが、どう思われるかはわからない。
いいでかいカメラをたくさん持っていたらカメラマンっぽく見えるかもしれないが、そんな見せかけは金さえあればできる。
ここでは「倫理観やマナー」が問題になってくると思う。
ぼくは以前、タイ北西部にある難民キャンプに侵入したことがある。これはルールを破っている。
写真家や作家など、潜入しても、結果無事に帰ってこれて作品を発表できたので、評価される。これは結果論だ。拘束されたり、殺害されるとアホみたいに叩かれる。
今回は、許可などが必要ない「個人の倫理観やマナー」にゆだねられる場合の話だ。
よく聞いたことある「ハゲワシと少女」のようなことだ。
やや極端な例になってしまったのだが、自分の経験に置き換えると、最近では東チベットの鳥葬やムスリムの集団礼拝である。
ぼくはカメラマンではなく、ただの好奇心を満たす旅行者だ。
鳥葬のときは、遺体をナイフで切り刻む写真はグロテスクで、そして遺族のことを思うと撮ることはしなかったし、できなかった。
ムスリムの集団礼拝では、凄まじく厳かな雰囲気と集団礼拝に圧倒されて、踏み込んだ写真が撮れなかった。
そのときに、集団礼拝の列の中にバンバン入って行って堂々と構えているカメラマンが1人いた。
その人を見て、ぼくは、「卓越する覚悟とプライドとを持つ者がカメラマンだ」と思った。
そうではないと、彼のような写真は撮れないだろう。
あのムスリムの集団礼拝の場では、ムスリムたちは観光客とカメラマンの違いなんてどうでもいいし知るすべもない。ただ、写真を撮っている人としか認識はないだろう。
しかし、もしあの場に観光客(カメラマンを含めて)が数十人くらいいて、みんながパシャパシャ写真を撮りはじめるのもなんだか違うと思う。
あの場には、女性は入ることができないし、マナーを守れない人が増えるとムスリム以外入れなかったり、許可がないと入れないような時代になるかもしれない。
難しいことだけど、ぼくはシンプルに「卓越した覚悟とプライドを持った者がカメラマン」と解釈した。
犠牲祭の様子です。
会社を辞めてもうすぐ4年目になり、旅の生活が長くなるが、いまだに学ぶことや考えさせられることはある。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
でわでわ。